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2023.08.16

インタビュー:「ぼくの鹿児島紹介(ときどき編集と、ぼくの地元について)」

編集者の岡本仁さんは北海道夕張市出身。進学で上京後も故郷への愛着は薄かったものの、近年「地元も悪くないなあ」と思うようになったといいます。そう気づくきっかけは鹿児島にありました。いまでは家を借りて住み、帰るとほっとする鹿児島にはなにがあったのでしょうか。岡本さんの考える「編集」と絡めて、お話を伺いました。

 

岡本 仁(編集者)
1954年、北海道夕張市生まれ。大学卒業後にテレビ局を経てマガジンハウスに入社、雑誌『ブルータス』『リラックス』『クウネル』などの編集に携わる。2009年よりランドスケーププロダクツにてプランニングや編集を担当。『ぼくの鹿児島案内』『ぼくの香川案内』(ともにランドスケーププロダクツ刊)、『また旅』(京阪神エルマガジン社)をはじめ、全国を津々浦々探訪する。2015年より鹿児島に家を借り、東京と行き来している。

 

みんなの鹿児島自慢


 2008年3月、<DWELL>というお店が鹿児島市住吉町にできました。すると、そこを訪ねるために鹿児島へ行っていろいろ見て回ってきた友人たちが口を揃えて、「鹿児島すごいよ」というんです。話を聞いているうちに、たまらなくなってしまいまして、その店の共同経営者である友人にお願いして連れて行ってもらったのが、はじめての鹿児島滞在です。それから随分時間が経ってから、天文館の近くに家を借りることになろうとは思ってもなかったですね。


 鹿児島の第一印象は、なんじゃこりゃ、です。景色も全然違うし、お年寄りの話す言葉は何をいっているか分からないし。だけれども、なんというのかな、人当たりに独特な感じがあって。いろんな人が代わる代わる登場しては、いろんなところにやたら連れ出してくれる。それが面白かったんですよね。


 東京に帰ると、ぼくを鹿児島へと誘惑した友人たちと同じように、会う人ごとに鹿児島の楽しさを話して回り、それでも余りあるもの、例えば、見たもの、聞いたもの、感じたもの、考えたことなんかをブログやFacebookに書き留めておきました。それらをまとめる形でできたのが、『ぼくの鹿児島案内』です。

 

編集ってなんだろう


 ぼくが生業にする「編集」という仕事は、自分が素敵だと思う物事や人物、その人が手がけた作品をできるだけ多くの人に素敵だと思ってもらえるように、発信の仕方を工夫してやっているところがあります。だからといって、『ぼくの鹿児島案内』は、編集者としての使命感みたいなものから生まれたものでもない。本当に楽しかったから、みんなも行った方が良いよと伝えたくてまとめました。本の中で紹介したお店は、自分で開拓したわけじゃなくて、鹿児島の知り合いが連れて行ってくれた場所ばかり。とはいえ、鹿児島の友人のおかげで満喫できたんですよっていうような書き口にならないようにしました。例えば、鹿児島に知り合いがいなくても、まるでその街に暮らす友人と一緒に鹿児島を回っているかのような読み方をしてもらえたら良いなと思って作っています。この本に書かれたことは、あくまでもぼくの体験記なので、どこが良いとか悪いとかそういう書き方はしていません。ぼくには合わなかったなと思っても、それを良いと思う人もいるのが普通のこと。現地に行った人へのご褒美っていうのは、当人にしか気づけないもの。だから、自分はここのこれが好きだと主張することが一番だと思うんですよね。


 どこかに行った時に、店内やメニューの写真を10枚ぐらい撮って、インスタグラムなんかでまんべんなく投稿する人がいるじゃないですか。それって、すごく「親切すぎる」というか。要するに、その店に実際に足を運ぶ人の楽しみってなんなの? ってなっちゃう。そういうわけで、みんなに見てほしいと思うところがあったとしても、あんまり写真に撮らないんですよ。写真家の若木信吾くんと一緒に鹿児島に行ったときに、「岡本さんの『ぼくの鹿児島案内』はいちばん大事なところを全部外していますよね。現地に来て分かりました」と言ってもらえたのは嬉しかったですね。そういうことなんですよ。文中に書かれたことや写されたものをそのまんま信じてもらっても困るんです、っていうことも、本を通じて同時に伝えているつもりです。


 少し前になりますが、2022年の10月、東京にある<生活工房ギャラリー>で、「岡本仁の編集とそれにまつわる何やかや」という展示を行いました。この展示は、2021年に<霧島アートの森>でやった「楽しい編集って何だ?」展がベースになったものです。その挨拶文は、「ぼくには答えがない」と宣言しました。編集のやり方っていうものには正解なんかないんだよ、まずはそこからスタートしなさいよ、と常々考えていたことを集約した一言でもあるんです。そうしたら同業者たちから、あの一言がすごく良かったといわれました。


 ないんだよ、答えなんか。そうみんなが思えば良いのに、と思います。もちろん答えはないから、答えを自分で探すっていう行動に繋げなきゃいけない。そこまでは言葉にしていないけれど、展示の全体感から伝われば良いかなと期待をして、はじまりの挨拶としました。それに自分の「編集」の回顧展のようなものを、わかったような顔をして開催することが途中で気恥ずかしくなるっていうか、嫌になるだろうなと。そう思ったので、これはあくまでもぼくの場合ですよ、と但し書きの意味も込めています。

 

 

 

郷土愛が生まれるわけ


 鹿児島といえば、やっぱり桜島。こんな活火山の近くにどうして人が住めるんだ、とびっくりしましたね。鹿児島の人たちは、「桜島の方が先輩なんで、先輩が怒ったら仕方がないなって思うしかない」っていうんですよ。それはある意味で、ぼくをはじめとする北海道出身者にとっては逆の感覚かもしれないと思います。


 北海道には、函館戦争以前から伊達藩がありましたけれども、倭人がアイヌの所有するその先の大地へと足を踏み入れたのは、それこそ明治維新後のことなんですよ。そこに集まった倭人たちは採掘資源でひと山当ててやるとか、生まれ故郷には訳あって住めないとかさまざまな事情がある人たち。いわば、ルーツを断ち切って、大地を切り拓く人たちがぼくの先祖なわけです。そういう背景からか、歴史観というか土地の歴史の重みのようなものにすごく疎い。ぼくの祖父母の代はもう北海道の人じゃないし、生まれ育った炭鉱町をルーツだと思う気持ちも育めなかった。こんなところ早く出て、一日も早く東京に行きたいという感じでしたね。


 それが鹿児島に来たら、「なに? この明治維新、明治維新ってすごく誇らしげな感じは?」って。郷土愛というかね、みんながみんなではないですけれども。歴史や先祖を敬うことや、代々その土地に暮らすこと、あるいは薩摩が行ってきた郷中教育の影響など、そういうことが長い時間をかけて積み重なって今日の鹿児島の人々を形作っている。それが本当だよなって思ったんです。本当っていうのは、何百年もかけて続く先祖からの血筋や一切を、直接ではないにしろ背負っているということ。そういう意識がある人たちが羨ましくなりました。そうか、そうだよなと。ぼくのような、地元を早く出たいわって感覚は当たり前じゃないんだと納得して。だいぶ年をとってから鹿児島に気付かされました。そこから、地元って何だろうと考えるスタートラインに立ったんだと思います。それから何年ぶりかに故郷に帰ったら、悪くねえなあ北海道って思いましたよ。地元のどういうところが魅力なんだろうと考えることができたんです。その魅力は、北海道じゃなければ生まれないものや感覚なんだろうなということも。地元から外に出て、いろんなところに行ったからわかることがある。そんなことにも気がついていませんでした。


 そういえば、北海道を開拓したのは、薩摩の人間。なんだよ、とは思いました(笑)。薩摩藩士がアメリカに渡って、そこでアメリカ人を引き連れて札幌農学校(現北海道大学)を作ったところが多分、北海道の文化的な意味におけるスタート地点。その頃からもう鹿児島に牛耳られていたのかとね。なんだかぼくの個人史ともかぶる部分があるんじゃないかと。

 

 

ぼくと、鹿児島。


 どんな土地でも、初めての場所に身を置くと自分の中に発見があるというのか、手つかずだった引き出しが突然開くことがあります。「そっか、だからこうなるんだ」と。鹿児島は、とりわけそれが多いですね。すごく勢い良くいっぺんにいろんな引き出しが開きました。


 例えば、良いことか悪いことかわかんないですけど、みんなものすごく横や縦の関係で繋がっているんですよ。流石にここは繋がっていないだろうと思っても、出身中学とか高校の話をすると後輩だ先輩だってすぐに繋がっちゃう。共通の知り合いや共通点をすぐ探す。なんで鹿児島の人たちは、こんなに他人に興味があって、心を開くのだろうと不思議でした。ぼくが一人っ子だからかもしれないけど、自分にはない感覚で。他人に興味がないんですよ。自分は自分だから。それで自分の中にある一番硬い引き出しがぐるん、と開きましたよ。だからといって、ぼくも同じようにするってことではないですけどね、もちろん。


 同じような話で、鹿児島に通い始めた頃、びっくりしたのがすぐに“ノンカタ(鹿児島の方言で、飲み会)”になること。ぼくはというと、誘った相手しか来ないと思っているんだけど、店に着くと人がたくさんいる。「岡本さんがいるから集合」って、なんだよそれ。そういうのが一番嫌なんだよ、ぼくは集めてないのに、みたいな。でもかえってそれが心地よくて。というか、面白かったんですよね。得意になる訳じゃないんですが。


 15年くらい時間をかけて鹿児島に通い続けていくうちに、だんだんと鹿児島のみんなが、そういうことにぼくは興味がないって薄々気づいてくる。すると誰も空港に迎えにきてくれないみたいなことも起こります。みんながぼくとの付き合い方を分かってきたのかもしれない。ぼくとしても、その土地での身の置き方みたいなものが分かってきました。鹿児島の人たちとの感覚とはずいぶん違っているけれども、そこにいる自分のことを平気だなと思うし、みんなもそう思っているのがわかる。そうなると鹿児島にいる間、嫌な思いをあんまりしないなって感覚的にわかるようになるんです。それが鹿児島に住んだ、ぼくにとってのご褒美なのかなと思いますね。


 そうはいいながら、鹿児島にこの先もずっと住むかどうかはわかりません、ぼくは風来坊だから。地元の人にとっては信頼できる仲間って感じはしないだろうけど、自分たちよりもいろんなところに行っていて、ちょっと面白いことを知っているって意味で面白がってもらうような、鹿児島のみんなにとっての「ぼくの伯父さん」になれたらいいなあと思いますけどね。